長谷寺のちょっとむかし ―幕末・明治・大正・昭和― スピンオフ篇

今回の特集展では、長谷寺の近現代をテーマに「長谷寺のちょっとむかし」と名付け、古写真や映像の展示を企画しました。

本格的に準備が始まったのは昨年の秋。
ここから、当山所蔵の古写真、明治時代の絵葉書や資料などを収蔵庫から掘り出し、調査を始めました。写真はアルバムになっているものもあれば、手付かずで整理されていないものもあり、全てを確認するのに数日。
今まで見たことのない昔のお堂の写真がたくさんあり、次に何が出てくるのかワクワクする調査でした。

しかし、これからが苦難のはじまり・・・いつ撮影したのか?どこで撮られたのか?ほとんど何も記されていないのです。
今では当たり前のように、スマホで撮った写真が地図アプリと連動していますが、そういうわけにはいきません。

例えばこの写真。一体どこで撮影されたのでしょう?

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撮影場所の手がかりとなったのが、商店の名前と道のかたち。
そして、時代の手がかりは「大観音御用材」と記されたのぼり。
これらのヒントから、この写真は昭和5年(1930)に始まった、長谷寺観音堂の再建で使用された工事用木材(御用材)を運ぶ様子を写したものと推測しました。
じつに90年前の貴重な写真です。

長谷寺は大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けました。この震災で茅葺屋根の観音堂は、倒壊は免れたものの、柱は傾き、今にも倒れそうな状態のまま数年間、お堂を木の棒で支えるだけの応急処置で耐えていました。
昭和2年(1927)に長谷寺再建復興事業が大々的に計画され、昭和5年(1930)、やっと観音堂の解体・再建が始まりました。その時に観音堂の工事で使用された材木が、写真の中の幟に記された「大観音御用材」だったのです。

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 観音堂解体のための上屋骨組竣工写真 昭和5年(1930)

さて、初めの写真に話を戻しましょう。
ではこの「御用材」の写真がどこで撮影されたのか?
ここから撮影場所の特定にとりかかりました。

そこで役立ったのが、昭和8年(1933)に発行された『大日本職業別明細図』(東京交通社編)。これは国内各地で作られた明細図で、商店の名前やその広告、写真などを入れたシリーズものの地図です。この明細図で写真の商店を探してみましょう。

当時の写真からわかる商店の名前は「米穀炭荒物油類 テボリ酒店」「いなり寿司 喜久屋」「和洋菓子」の三つ。これを地図上で探してみると・・ありました、「テボリ酒店」。由比ヶ浜通り、現在の笹目町辺りにあった商店です。ということは、写真がこの付近で撮影されたものだと分かります。

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そしてもう1枚。

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この商店を明細図でさがしてみると、原ノ台の横に「開栄堂菓子」を発見!少し曲がった道は、現在ソサエティーがある周辺の道と合致します。これらのことを総合すると、長谷交番前辺りから撮影したことが分かりました。

この二つの写真から、昭和5年(1930)、観音堂再建のための御用材は、牛車で鎌倉から由比ヶ浜通りを通り、長谷寺まで運ばれたことが新たに判明したのです。

ちなみに、この巨木が切り出されたのは山形県置賜郡高畠町の小湯山(こようざん)でした。山形から鎌倉まではるばる列車で運ばれ、鎌倉から長谷寺まで牛車にひかれ・・・きっといつかこの物語が、長谷寺中興伝承の一部になるかもしれませんね。

このようにして、当時の資料・地図・写真を駆使することで、パズルを組み立てていくような地道な作業をしながら、撮影された年代、場所そして何を写しているのかを探っていいきました。

展示では、小湯山で巨木を切り出す場面や山形から列車で運ぶシーンなども写真でご覧いただけます。

展示期間は5月14日(日)まで。
この機会にぜひ、長谷寺と鎌倉の近現代を体感してみてはいかがでしょうか!

学芸員O