学芸員のオススメ「福を呼ぶ大黒天像」

リニューアルオープン展彫刻編の後期展示では、長谷寺に伝来する神奈川県内で一番古い大黒天像が出品されています。
こちらのお像は「出世大黒」として大黒堂にお祀りしていましたが、現在は観音ミュージアムに収蔵され、企画展示期間のみの公開となっています。

さて、大黒天というとどのような姿を思い浮かべるでしょうか?
左肩に大きな袋を担ぎ、右手に小槌を持って、短身…
まさに長谷寺の大黒天像はイメージぴったりのお像だと思います。

大黒天立像01

頭に頭巾をかぶり、たっぷりとした耳たぶ、にこやかなお顔、左肩には重そうな大きな袋を背負い、右手で小槌を持ち俵の上に立っています。ずばり、福徳がありそうなお顔しているではないですか!

このお像、過去の調査において、背面の墨書銘から応永十九年(1412)九月十八日の造立ということが判明し、県内最古の大黒天像とされます。

大黒天、じつは本来、穏やかなお顔の神様ではありませんでした。
インドの神様で、戦いの神である摩訶迦羅が仏教に取り入れられて大黒神として訳され、大黒天となったのです。
この摩訶迦羅天、胎蔵界曼陀羅外金剛部院を見てみると、三面六臂の忿怒像で宝剣を持った姿をしていて、少しも福神らしい面影はありません。

『大正新脩大蔵経 図像』第一巻「大悲胎蔵大曼荼羅」より
『大正新脩大蔵経 図像』第一巻「大悲胎蔵大曼荼羅」より

また、唐時代に中国僧義浄(635-713)がインドに赴いた時の見聞を記した『南海寄帰内法伝』には、忿怒像とは異なった武装形の半跏像が寺院の食厨に祀られていたと記されています。
日本においてこのような半跏像は天台系寺院で祀られ、左手に宝棒を執り岩座に半跏する姿として造られました。
ちなみに前期の展示ではこの武装形半跏像の大黒天が展示されていました!

では、袋を背負った姿の大黒天像がいつごろから造られたかというと、平安時代に神仏習合思想の高まりによって、出雲大社の祭神である大国主神と大黒天が習合して日本で考案されたとされます。
大国主神の「大国」をダイコクと読む音の共通から大黒天と同一視されました。
そして大国主が袋をかついでいる姿をしているので、このスタイルを大黒天像にも適用したわけです。
こうしてインドの神様であった大黒天は日本の大国主神となり、福の神へと変化していきました。

ちなみに袋を背負った姿の大黒天像として最も古いものは、大宰府の観世音寺が所蔵する木造大黒天立像で、平安時代後期の造立とみられます。
このお像、とてもスリムで、厳しい表情をしていらっしゃいます。
長谷寺大黒天像のような短身で穏やかな笑みを浮かべる像が造られるようになるのは中世になってからなのです。

中世以降大黒天を「福の神」として信仰することが定着すると、俵の上に立つ姿の像が現れました。
今一般に大黒天像のイメージとしてなじみ深いスタイルは、南北朝から室町時代にかけて形成されたと考えられています。
長谷寺の大黒天像は、以上のような「福の神」の形が完成した初期の像といえるでしょう。

古来インドの食堂や厨房に祀られていた大黒さま。きっとカレーの香りもお好きなはず。
長谷寺の名物「寺カレー」もきっと気に入ってくれるのでは!

この機会にぜひミュージアムで大黒さまにお会いしてみてください!

学芸員O